札幌市中央区 進路

僕が小中学生の頃に、父は設計事務所を運営していました。
といっても、建築士でもなく、設計士でもない父はいわゆるブローカーという建てたい人をみつけては土地を探し、買い付けをしあっせんをする、仲立ち業です。
少しだけ大きくなって、建築士や設計士を雇用して不動産ブローカーの走りをしていたのです。

時は、高度成長期。
どんどん建てろ、どんどん建築し、銀行は金を貸せ!という時代です。
国を上げて国土を開発する気運が高まっていました。
銀行も貸し渋る事なく、貸していました。それが高度成長時代でした。田中角栄の時代あたりでしょうか。
父は新川のとある病院の建設にかかわりました。今までにない大きな建築でしたので事務所上げての総力をあげての建築だったはずです。
その建築した病院は1年で銀行返済も滞り始めました。
焦った父は、運営をやり始め、医療法人をつくり知り合いを理事長に据えて、自分は専務理事になり事務長として運営しはじめて、経営は落ち着きを取り戻したように見えていました。
僕が今でも、建物などは90%立地だと思ってるのはここの病院の立地が市街化調整区域をちょっと外れた新川の奥の奥だったからです。今ではバスも通りますし、交通はなんとかなりますが、当時は勤務する人さえ勤務に困るくらいの場所でした。
なので、病人がなかなかそこの病院にはいきにくいというのが主な理由で赤字になっていました。

その運営を人気の高い医師が来てようやく落ち着いたという事でした。

父に僕は中学生のころから、医師になってそこを運営するようにと言われたものです。
高校生になって、テレビで世界を駆け巡る日本の商社マンの特集を組まれていました。

憧れました。

世界を相手に商売をすることに。
父に内緒で高校3年でコースを変え、国立文系コースに変えてしまいました。
それで道内の国立大に行く事にしてしまったのです。

その時の父の怒りはすさまじく、数日、口をききませんでした。
その後、父に話があると書斎に呼ばれました。

どんな生き方をしても人生は後悔をするものだ、自分のような後悔をしては欲しくなかったから私の考える最良の道をいい道だと思い込んでしまった。
だからもういい。でも、高校を卒業したらここを出て行ってくれ。
もうおまえとは一緒に住めない。これはおまえを一人前だと思うからこそいうのだ。

 

父にそういわれ、僕はわかりました。高校卒業して大学に入学と同時に家を出ます。

それが18歳で家を出た真相です。
父は僕を18歳で
一人前だと認めたのでしょう。僕は翌年の3月合格とともに、札幌市の西区24軒に転居しました。

もちろん学費以外の支援は一切ありません。一人前だと認めたということはお金も自分で稼いでということになります。
なので、4月から学校半分、アルバイト半分の生き方が始まりました。
苦労したとはまったく思っていません。体がそれだけ元気で、動ける事はすごいことだと今から考えると思います。
疲れたと思ったこともありません。
朝から働き、学校にいき、また働く。
当時の家賃は34000円でした。ので、最低5万稼ぎ、家賃を捻出するとどうにか住むところは確保できます。
食費は飲食系のバイトを土日にしていましたし、ダブルトリプルで働きました。
弁当やさんで働いた時には、店長さんがこれもってけ!とおかずやごはんなど、余ったものをすごい沢山くれました。
お礼に、タイムカードを押してからも1時間くらいは働いたものです。

それに気が付いた店長さんは、おまえの年でこんなことに気が付くのはすごいけど、いいんだよ。無理しないで と言ってくれました。

その後はブログにも書いた、ホームセンターや、化粧品会社にも勤務しました。

ひとつづつ書ききれないほどのお話はあります。
また気が付いたら書くことにします。