札幌市 中央区 母のこと

土曜はやはり母の部屋のショックが大きく(土曜のブログ参照ください)少し気持ちが落ち込みました。
そんなことは言っていられないのは十分承知ですが、自分の親が、あの聡明だった母がどんどん認知がひどくなって症状がでてくることは、その現実を直視しないといけない立場としては辛いものです。

皆さんもいつか同じ現実と向き合う日が来るかもしれません。
同じ思いをいだくかもしれません。
その時の少しでも参考になればと思いながらブログを書き続けています。

母は東京で生まれたと聞いています。
祖母が日本橋で喫茶店を経営していました。
当時のことですので、日本で喫茶店などなかった時代に喫茶店を開き、そこに来てたのは政治家や会社経営者など当時のお金持ちの人たちです。
お茶を軽くのみながら談笑するという形式のお店は、当時珍しく、気軽で楽だった為にいつも満席ときいていました。
なにかがあったはずです。今は推察することしかできませんが、祖母は母と、叔父をつれ3人で日本の最北の土地、根室まで逃げたと思われます。

そこで母は育ちました。
高校をでるまではそこにいて、根室高校を出て札幌に出てくるまでは、帯広や北見にも一時住んでいたはずです。(戸籍の記録から)
当時のことを聞いても、今の母は覚えていません。
昔聞いたときは、叔父の転勤について歩いたと聞いています。

行く先々で勤務したのはどういうわけか病院です。
帯広では帯広の厚生病院、北見でも赤十字病院だったはずです。
手書きが主流でしたので、請求の計算を手書きで行いその請求事務をずっとやっていました。

僕が出生後も斗南病院に勤務していました。

人間どうなるかわからないものです。
僕もいつか疾病になり、病院での入院を余儀なくされる日がくるかもしれません。

その時まで、健康で元気ですごせるよう、いろいろ考えたいものです。